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堀部安兵衛武庸についてDATE : 2013/01/10

新発田城表門前の安兵衛像
新発田城表門前の安兵衛像

元禄15年(1702)、主君の仇討ちのため赤穂(あこう)浅野家浪士四十七名の一人として吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷に討ち入り義挙(ぎきょ)を成し遂げた安兵衛は寛文10年(1670)5月、新発田藩士二百石取り中山弥次右衛門(やじえもん)の嫡子(ちゃくし)として新発田外ヶ輪に生まれた。母は産後まもなく死去したため3歳まで母方の祖母藩主溝口秀勝公の五女糸姫(秋香院)に育てられた。 
14歳の時、父弥次右衛門が辰巳櫓(たつみやぐら)当直中の失火で兵具の合羽を焦がした責任を取り浪人となった。妻の実家である溝口四郎兵衛宅に家族と共に世話になるのだが間もなく亡くなり、中山家の菩提寺である長徳寺に葬られた。3年後、姉きんの嫁ぎ先である庄瀬牛村(旧白根市)の長井弥五左衛門宅で文武に励んだ。 
元禄元年、19歳の年に長徳寺に印籠と共に石代松を預け江戸に出府(しゅっぷ)した。寺に残る「安兵衛手植えの松」はこの時残したものと伝えられている。 
元禄7年、叔父甥の「義」を結んだ菅野六郎左衛門と村上兄弟との高田馬場の決闘の助太刀(すけだち)で一躍名をあげる。その話を伝え聞いた浅野家家臣・堀部弥兵衛金丸(やへえあきざね)の養子となり、名を應庸(まさつね)から武庸(たけつね)と改め浅野家家臣となった。 
元禄14年3月14日「松の大廊下」の刃傷(にんじょう)事件で主君は即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなったが一方の吉良上野介には何のお咎めもなかった。幕府の御沙汰を不服とし、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士四十七人は、元禄15年12月14日、主君の仇討ちのため吉良邸に討ち入り念願の義挙を果たした。

 

 元禄16年2月4日 
「梓弓(あずさゆみ)ためしにも引け武士(もののふ)の 道は迷わぬ跡と思はば」
           安兵衛が残した辞世の句 (34歳)

 

明治45年5月10日福岡の頭山満(とうやまみつる)、のちに中央義士会を創設した福本日南らの支援を受けて「義士銘々伝」で成功をおさめた浪曲界中興の祖・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が口演で生誕地・新発田を訪れた時、安兵衛・顕彰碑の計画があることを聞き長徳寺に赴き、福岡の自宅に秘蔵する四十七士木像の寄贈を申し出た。そして住職の関根仁応(にんのう)氏、檀家の高橋静一郎と三人で安兵衛手植えの松の前で記念写真を撮った。 
その年の12月14日、富田精策、上野喜永次、高橋静一郎の三人が武庸会の立上げを計画し、翌年の大正2年2月4日「武庸会」が発足した。

 

4月16日、高橋静一郎氏自ら博多の雲右衛門の自宅に赴き譲り受けた義士木像が新発田に到着した。義士木像は迎えの三ノ町台輪に乗せられ、高張提灯を先頭に武庸会、四十七士の装束の芸妓他百数十の祭りのような行列で長徳寺に納められた。 
昭和4年4月3日この義士の木像を納める「義士堂」が完成し、13代溝口直亮(なおよし)公の書を中心に建設に賛同した後の元帥・陸軍大将武藤信義や中将・少将、政治家では首相経験者の若槻禮次郎、新発田出身の高橋光威、芸術家では会津八一、相馬御風他の「書画」60点が格天井や壁に納められた。

 

昭和45年、泉岳寺に四十七士生誕地の石で碑を建てる計画があり、新発田からは新発田城の石垣にも使われた古寺山の玄武岩2つが三条市の関数雄・佐藤武英氏と新発田市の佐久間達也・石井和一郎氏の縁により贈られた。更にこの石にノーベル文学賞を受けた川端康成直筆の『有由有縁(よしありえんあり)』が、堀部家の子孫から堀部の名前を使うことを許された「堀部石材店」によって刻まれた。現在も四十七士の墓所を見下ろす慈航観音霊験堂(非公開)の脇に他の義士の碑と共に建てられてる。

 

平成24年4月 小 林 

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